アップデートする学校事務職員

2050年学校事務職員への伝言

7時限目:アップデートする学校事務職員:理系事務職員の発想

 7時限目は、私が「学校事務」の法則性?のようなものを、考えるヒントのような話を書いてみる。学校事務職員のみなさんの参考になるかどうか、はなはだ疑わしいが、こんなことを考えて「学校事務」という仕事をしていた変な「学校事務職員」がいたという話である。

①私は理系の人間だと「自分で勝手に思っている」。「理系」「文系」という分類も根拠がなくあいまいだが、理数学的なことが好きという程度だ。

②20代の私の問題意識(ユング精神分析エリクソン発達心理学

 私は、自分の緊張感のない公務員生活、仕事で充足されない気持ち、そして事務研究会や労働組合で会う学校事務の先輩たちの愚痴のような話や言動などから、学校事務職員の心理的行動を類推してみようと思った。

 社会学的なインタビュー調査やアンケート調査はしなかったので、根拠となる数値データがない。エピデンスがないので科学的でないと言える。唯一の統計資料である「学校事務職員の年齢職名構成による男女別人数」が教職員組合事務職員部から出されていた。そのデータを10年分眺めると、20代の女性が数年たって離職していくことがわかった。20代の男性も若干だが離職者が存在した。そういった状況証拠から類推した課題設定と何故そうなのかという論理を考えた。その時書いた内容が次だ

「課題設定は『学校事務職員には職業アイデンティティが不在ではないか』

■20代の仕事への不安な気持ち

 県に学校事務職員の人材育成計画がない。そのため仕事の目的と内容が不明確。学校事務に対してのビジョンが作られない。仕事へのモチベーションが上がらない。ただのまじめな公務員として「学校事務の仕事は法令に基づいた書類作成」という認識が少しづつ醸成される。書類の作成は目的達成のためのいち「手段」なのだが、間違いのない書類作成という仕事が「目的」化される。そのことに疑問を持った事務職員は職業アイデンティティがゆらぐ。無難な公務員生活に満足できるか。それでもいいと考える事務職員もいる。不満を抱える人は教員や一般企業等へ転職、場合によっては結婚退職(昭和時代)による学校事務からの離脱を目指す。

■30代の仕事への安易な充実感

 学校事務の書類作成にも慣れ、ベテランらしくなる。書類作成の学校事務という仕事は簡単だと思いこむ。結婚し家族を持つと、離職することも難しくなり、事務研の役員や労働組合の役員にもなって、それなりに役をこなす。子育てもちょっと大変だし、自分の趣味も謳歌したいし。生活を楽しみたいし。

■40代の仕事への評価がほしい気持ち

 40代になると学校には役所みたいに「係長」とか「課長」とかないし、そういった「出世とは縁がない仕事」ということは知ってはいたけど、なんだか寂しい。仕事の評価のようなものが欲しいという気持ちが芽生える。学生時代の友人から「学校の事務員ってどう?」と言われるとちょっとむかつく自分を発見する。自分は何のために仕事してるんだろうか。40にして惑うとはこのことか。

■50代の仕事への再評価を求める気持ち

 何だか、経験年数だけは一人前にある。学校で働いて「自分は何ができたのだろうか。何が残せたのだろうか。それなりに学校のために仕事をしてきた」と思いたい。事務研や労働組合の役員も経験したし、事務職員のみんなのための仕事もしてきた。そろそろ退職かあ。何だか寂しいような気持ち。

■まとめ:職業アイデンティティとは何か

 採用から退職までの学校事務職員の心理状態をややネガティブに書いてみた。

 自分の仕事に意味を見出し、学校事務をよりポジティブに考えられる事務職員は幸せだ。この論考で言いたいのは、「人材育成の重要性」と「仕事への評価」である。事務研や労働組合は常に、「学校事務はこうあれ、こうではないか、こうしたほうがいいのでは、子どもたちのために等」と鼓舞する。でも「なんだかなあ」という感じだ。で今一歩気持ちが乗らない。採用時から始まる「職業アイデンティティ」の形成は先輩事務職員の大事な任務だと思われる。自分が先輩事務職員という立場になったら後輩に自分の姿をさらけだしていきたい。」

 という内容を私は書いた。思いあがった20代の若者だった時代です。

 学校事務職員はこの負のスパイラル(仕事で充足されない気持ち)から正のスパイラル(仕事で充足する気持ち)へ転換する必要があると思うのだ。その転換を促すための方策はある。一人ひとりの学校事務職員は自分なりの学校事務観を持っている。その考え方に執着する傾向があるので、大きな変化でもちいさな変化でも自分に起こす努力が必要だ。今の時代はどうなのだろうか?私の20代だった1980年代昭和の学校事務職員像と2020年代令和の学校事務職員像は大きく変わったのだろうか?

③30代の私の問題意識(遺伝子生物学と線形代数

 次に私が掲げた課題設定は、「学校事務」に法則性があるのかどうか?だ。これは学校事務という仕事をしてきた私の研究テーマ(?)の一つだった。

 学校事務職員が行う学校事務という「教育活動に作用する力」について、考えた。それは30代になって結婚し家族を持った私が、「もう逃げられない。学校事務と正面から対峙しようと覚悟」した頃に考えていたことだ。

学校を一つの生物学的な細胞と仮定しよう。

 学校という細胞。核を「校長を含む教員」としたら、ゴルジ体は「養護教諭」か。「養護教諭」は植物細胞の葉緑体かもしれない。だとしたら学校事務職員は「ミトコンドリア」ではないのか。ミトコンドリアはそれ自体で遺伝子を持っている。そして重要なエネルギーを作る細胞だ。学校事務職員は人事異動の時に事務引継をする。「文書」が「遺伝子」か!「文書分類表」は「遺伝情報」のように見えてくる。どこの学校も同じ「文書分類表?」なのか。学校事務の持つ経営要素「ヒト・モノ・カネ」は学校経営の重要な要素ではないか。これが細胞のエネルギーか!結構、重要な仕事ではないか。こんな重要な仕事をするには自分の実力が伴わない。これは大変だ、もっと勉強しよう。この考え方に自己満足し、結構当たっているんじゃないか。となると、学校という細胞内でより活性化する学校事務になったほうがいいなあ。などと考える。

 数学に「線形代数」というのがある。

 行列式でAとBを掛け合わせると、図のようにそれぞれの数値を掛け合わせる。この考えを援用して、校務分掌の学校事務をAとしその中の係と学校教育をBとしてその中の係を掛け合わせると考える。例えば(予算 備品)×(教科 諸教育)。すると次のような関係が見えてくる。(予算教科 備品教科、予算諸教育 備品諸教育)だ。

 ひょっとしたら、学校事務は学校教育のすべての分野と掛け合わせてコラボできるということではないか。そんなことを考えながら、「教育条件の整備」とは何か、について考えてみた。

 「教育条件の整備」についてはいろいろ考えられる。憲法26条から考えてみよう。

26条の1 

「どの子にも能力にあった教育」を学校事務職員としてどうするかを考えてみる。

「教育を受ける権利の児童生徒」 

・学校施設の整備 校舎・教室・廊下・校庭・備品・消耗品 教育に関わる全てのハード部分。電気・水道・ガス・ソーラーパネル・樹木・草花・通学路まで

26条の2 

「保護者の就学義務・義務教育の無償」を学校事務職員として考えてみる。

「就学させる義務の保護者」

・教科書 就学援助 学校徴収金 学校給食費  制服 かばん 体操着

「学校を経営する教職員」

・情報管理 教職員人件費(給与 旅費 福利厚生 など)

学校事務職員一人では多忙だ。赴任した学校で、この学校に合った教育条件整備、何を重点にすれば良いのか学校事務の作戦を考えよう。自分には、何ができて、何ができないのか。

④40代の私の問題意識(地球環境科学)

 ある日、『ガイア仮説』という本を読んだ。それは地球そのものが生物学的な意思を持っているような振る舞いをすることから、「地球=生命体?」というアメリカのカプラという科学者の仮説だ。

 地球の物理的・化学的な現象を考えてみよう。地球は太陽エネルギーを受けている。そのエネルギーを受け続けると地球は熱くなってしまい生物は死に絶えてしまう。赤道付近に多くの熱エネルギーがあるので、空気を利用してこの熱エネルギーを北極や南極へ循環させるのだ。そして地球全体を平熱?にする。もちろん太陽エネルギーを宇宙に反射したりしてもいる。地球の体は岩石でできている。成分の多くはケイ素でケイ素はシリコンのことだ。溶けたマグマが固化する時、同じ成分で熱や圧力などの条件が同じなら地球のどこでも同じ岩石ができる。それって、すごくないですか!条件さえ同じなら物理の法則が化学の法則と合同で機能する。生物のDNAが同じ生物を作るのと同じような類似性を私は感じます。

 30代のある日を思い出しました。私は、やはり同じ理科系の匂いのする後輩のN君に、このような話をし、すべてのものに始まりと終わりがあり、生物も無生物もDNAによってDNAのようなものによって再生されていくね、学校事務職員ってどうなんかな。

「よく学校でさあ、有機的な校務分掌とか言ってるけど、あれって、違うと思わない?」と言った。「有機的というのは、炭素分子が結合している立体的なものをいうから、学校の校務分掌図って二次元平面でなくて、三次元の立体模型が正解なんじゃない」と。

当時20代のN君は「わかった!私が、三次元の立体校務分掌モデルを作ります」と言い彼は後日「三次元立体校務分掌モデル」を描いた図を私に見せてくれた。

これなら私が考えていた「学校事務の線形代数的モデル」と整合性があった。こんなことは事務研でも組合事務職員部でも考えることはなかったし誰も考えなかっただろう。

 学校事務の法則性、を考えてみた結果、学校事務を立体モデルにイメージ化(見える化)して学校事務職員の学校での位置を明らかにする。そして、だから学校事務職員がこう動いたら学校教育はこういう効果が期待できる。みたいなことを学校事務職員のみんなに知らせたかった。

 しかし、このモデルの欠点もわかった。それは、学校事務職員一人一人が確かな使命と能力をどこまで認識しているか、ということだった。■