アップデートする学校事務職員

2050年学校事務職員への伝言

6時限目:アップデートする学校事務職員:「正規分布曲線分析」と一定数の反対派

 6時限目は、何か新しいことをする時に、批判を恐れて躊躇することがあるので、勇気を持って「新しいこと」をするために「正規分布曲線分析」という考え方があるので、それを援用することを提案する。

 

①1時限目の「はじめに」の中で、アップデートする学校事務職員のことをちょこっと書いた。昔の話になるが、『学校事務』誌1985年12月号に「学校事務職員のアイデンティティ」について書いた文章が掲載された。それは20代の頃の仕事のモヤモヤ感を分析した文章だ。内容は、学校事務職員としての人材育成がなされず、多くの事務職員が仕事について思い悩んでいるのではないか。学校事務職員一人ひとりが「職業的アイデンティティ」が発達心理学的に形成不全だからではないか。というものだ。

ボーボワールが『第二の性』で書いていた「女は女に生まれるのではなく、女に育てられて女になる」という言葉を、そのまま学校事務職員に当てはめてもいい。「学校事務職員は、採用された時は学校事務職員ではなく、学校事務職員として育てられて初めて学校事務職員になる」と思う。3時限目「人材育成の失敗」の中でも書いたが、自分自身が採用されてから学校事務職員として育てられることはなかった。

③鳥類は卵から孵化したときに、最初に動くものを親と認識する「刷り込み」が行われる。学校は教員世界だ。新規採用事務職員が学校事務職員として育てられず、学校内に多い教員に育てられ、教員に転職する、という状況は数多くあった。実際私も採用された学校の校長に教員への転職を進められた。学校事務というものが正しく評価されていない時代の話だ。

④さて、学校事務職員も少しずつアップデートしている。私が採用された1980年代の学校事務と2020年代の学校事務はすでに大きく違う。コンピュータソフトは不具合があれば改良されるように学校事務も少しずつ改良が進んでいると思う。

 採用制度を大きく変えようとか、仕事を全く変えよう、みたいな、いきなりのバージョンアップ(!)というわけにはいかない。徐々に徐々に変化する感じアップデートが好まれる。

⑤学校事務をビジネス経営学的に考えて機能させよう、という考えは1970年代からあった。しかし、大きくは進まなかった。課題は、新人の人材育成を進めるために旧人が頭を切り替える必要があるのだ。これは学校事務も行政組織の端くれであり、かっちりした官僚主義世界(行政組織など)の宿命だと思う。前例主義は、失敗はないが大きな変化も期待できない。

経営学の分析の一つに「正規分布曲線分析」というのがある。例えばテスト成績を統計にとると、平均値をピークに前後になだらかな曲線になる。これを「正規分布曲線」という。この傾向を利用して人間行動を分析する。

 「新しい提案」をする時に、その評価を「特に良い・良い・普通・悪い・特に悪い」と5段階にすると、特に良い5%・良い10%・普通70%・悪い10%・特に悪い5%、という分析結果になることが多い。つまり、一定数の賛成派とどちらでもよい大多数と一定数の反対派がいるということだ。

⑦「新しい提案」は、常に反対する人がいる。私は「抵抗勢力」と現職中は冗談ぽく呼んでいたが、リスクを恐れて現状維持を願う人は一定数いるのは仕方がない。しかし、いろいろなことを先に進めるには、ある程度のリスクも承知で進めるしかない。

⑧例えば、2000年代になって、学校事務の共同実施やってみたら、という提案(文科省中教審答申)が全国的に吹き荒れた。

 この共同実施の提案は、学校で1人職場の事務職員だから、近所の学校で集まって時々一緒に仕事をしたら、という提案だ。実は先に書いたように、学校事務職員は人材育成されてきていないので、ある意味、各人が好きなように「自分で自分を育成」してきた。自分自身を育成しない人もいたけれど、一人ひとりが自分の勤務する学校で「一人親方」となって仕事をしてきた。そうすると、「現在の自分の学校事務職員としての働き方」がいつのまにか「これからも自分の理想とする学校事務」であるという考え方に陥る。私もそうだった。自分の仕事の仕方が正しい、という思い込みだ。本当は違うんだなあ、ということが後でわかるのだが。

「学校事務という仕事」と「学校事務職員個人の働き方」を、混同してはいけないんだと思う。これを理解することはとても難しいことだ。

文科省のような「新しい学校事務の姿という提案」が「自分の考える学校事務職員の働き方の姿」と違うと「反対」したくなるのは無理もない。先ほど書いたように「混同して考えていること」と「前例がない」からだ。その一つの例が「学校事務の共同実施」から一歩前進した「共同学校事務室」だと思う。

⑩「共同学校事務室」という法制度が「共同実施提案」の20年後の2020年にできて、それを利用するかどうかは、学校事務職員と市町村教育委員会の考え方次第なのだが、一人で仕事をしてきた学校事務職員にとっては、複数人でする学校事務をしたことがないので「怖い」のだ。自分が良かれと思って行ってきた学校事務の仕方が、標準的であるのかどうか、わからないからだ。それを克服するには、他者の学校事務の仕方(考えと行動)を実際に見る必要があるのだ。私は他の学校事務職員がどのように学校で仕事をしているのかとても興味があったが、退職までついぞ見ることはなかった。

⑪極端にお役人的に仕事をする学校事務職員から、疑似教員的に教育内容に関わろうとする学校事務職員まで、学校事務に対する考え方と働き方があるのだから面白い。どれも間違っていないし、それを受け入れる学校事務は柔軟性があると思っている。学校事務職員の数だけ学校事務の仕方があると考えてよいのかもしれない。だからこそ、様々な機会と場所で、「自分の学校事務を開示する」必要があると思う。そしてお互いの意見を出して、批正し合うことが大事だ。

⑫「共同で集まって仕事すると、人員削減される」という言説に惑わされることがある。それは80年代に義務教育費国庫負担制度改悪反対闘争を経験してきた50代以上の学校事務職員のトラウマからきている。本当にそうなのか?検証したのだろうか?共同実施と人員削減はイコールではない。それって学校事務職員に対する雇用者と労働者の力関係なのだ。労働者側の弱い県は確かに人員削減されているのは事実だ。今の若い人たちは理解できないかもしれないが、労働組合って意外に重要なんです。長野県の教職員組合は意外と強いのです。

⑬今、少子化の時代となり、学校統廃合が進んでいる。学校事務職員を全校配置しているこの長野県にも、政策的な人員削減でなく、むしろ学校減により県費事務職員数が減っている。だからこそ、新しい学校事務の創造と、学校事務職員の仕事の仕方を、みんなで知恵出して考える必要がある。利用できる法制度は利用していったらどうかなと外野から思っている。何事もやってみないとわからない。やらずに不安ばかり抱えていても仕方がないと思うのだが。知恵のある学校事務職員だから、メリットとデメリットを秤にかけて判断してみたらと思う。

⑭長野県事務研は1980年代にブロック研修を進めることを決めた。地域で事務職員が集まって書類の点検を中心にした実務研修会を毎月開いていた。ところが、全県で進められているものと思っていた私は、長野県の北部や東部では実務研修会を開いていない、という話を聞いておどろいた。県事研のそのブロック研修に反対だったんだ?どうして?全県で進めるようと決めたのに。私の勤務した長野県中部や南部はブロック研修が当たり前のように行われていた。だから、旅費請求票のチェックは先輩事務職員の方にお世話になったし、旅費の考え方やその他学校でのさまざまなトラブルの話にも相談にのっていただいた。とても良い実務研修の機会だった。長野県北部や東部の地区研は、公文書の学外持ち出しと個人情報の漏洩が問題だと言っていた。確かにそれは正論だ。しかし、長野県中部と南部は、教育事務所と校長会の了解と公務員としての各事務職員の高い倫理意識でクリアしていた。

⑮そういった、80年代から長野県中部や南部のブロックで実務研修を行っていたので、「共同実施」という2000年代の文科省提案についても「もうやってるよ」とスルーすることになった。しかし、長野県的には「共同実施=定員削減」というイメージが先行し労働組合は「共同実施反対」事務研も「話題にしない」というスタンスだった。私は個人的に学校事務を変えるきっかけとして賛成のレポートを教研集会で発表した。

2005年「市町村合併と学校事務の共同実施について」 - 学校事務職員Hの仕事(1997~2016) (hatenablog.com)

やがて、長野県で先駆けて中部南部のいくつかの市町村で2020年代の「共同学校事務室」を受け入れることができたのも、地区事務研がブロック実務研修を行ってきていたことと、校長会や地教委との連携できる力が事務職員にあったということの証明だと思う。■